花魁豆知識

江戸の華!花魁に関する基礎知識

時代劇などでたびたび出てきては時に大きな役割も果たす重要な役どころとなる花魁。花魁については何となくのイメージがあるかもしれませんが、実際のところどのような存在だったのかを知る人はそれほど多くはありません。しかし、時代を彩る存在であったことは間違いなく、その華やかさとどこかはかない存在感に興味を持っている方も少なくないのではないでしょうか。そこで、花魁とは実際のところどのような人たちだったのか、詳しく調べてみましょう。

花魁とは

花魁は、「おいらん」と読みます。吉原遊郭の遊女で、その中でも一握りの位の高いもののことを指します。女性の憧れの対象として、美しく高い気品にあふれた花魁は、時代を超えた魅力を放っています。

花魁の歴史、起源

日本に遊郭ができたのは、1589年の事とされています。とはいえ、花魁という言葉が使われ始めたのは、18世紀に入ってからのようです。なぜそのような言葉が使われるようになったかというと、一説には、妹女郎が格上の女郎のことを「おいらの姉さん」と読んだことが起源とされており、その呼び方が徐々に短くなって「花魁」という言葉が定着したというのが広く知られている花魁の起源となっています。 やがてその呼び方は、もとより位の高い遊女を指す言葉として存在していた「太夫」という言葉よりも定着し、全国的に太夫は花魁へと呼び方を変化させていったのです。 どれくらい位が高かったかというと、一つの例えとして「城が傾くほどお金がかかる遊女」ともいわれており、花魁を自分のものにしたいという権力者たちにとっては、一つの自分の権力を誇示するために必要なステータスともなってきました。懇意の花魁がいることはその時代において一つの成功者のあかしともなり、単なる色恋以上の意味合いを持つものとなったのです。 花魁がそれほどまでに知名度を上げた背景には、当時の国の政策が関係していました。江戸時代、遊女屋があちこちに存在することによって風紀の乱れや治安の乱れを懸念した幕府は、女郎屋を一区画にまとめることでそうした問題の鎮静化を図りました。 そこで登場したのが、吉原遊郭です。吉原遊郭は京都の島原遊郭、大阪の新町遊郭と並んで、日本の三大遊郭としてその名を全国的に有名にさせます。この中でもとりわけ吉原遊郭は巨大で、2万坪もの敷地の中に、遊女は千人以上いたともいわれています。こうした遊郭も明治から時代が先に進むにつれ次第に衰退していきました。そして1954年の売春防止法が施行されたことによって、300年以上続いた遊郭の歴史は幕を閉じたのです。

花魁の階級

どんな世界にも、それぞれのポジションを表す階級というものが存在するものですが、花魁の世界でもそれは例外ではありません。また、時代によって変化するのが花魁御階級の特徴ともいえます。 少し歴史の順にみていくと、遊郭が許可された当時は花魁という階級はありませんでした。また、遊女の階級も2つしかありませんでした。それが、「太夫」と「端女郎」です。その後遊女の人口が増えるにしたがって、それぞれの美貌や稼ぎ、教養にも差が出てきたため、さらに階級を細かくすることにします。こうしてできた階級が、「太夫」や「格子」「局」「端女郎」「切見世女郎」といった階級です。 このうちの「太夫」だけが後に花魁と呼ばれるようになり、多くの人の憧れの対象となっていくのです。どの階級に属するのかによって、待遇は大きく異なっていました。例えば、一番くらいの低い「切見世女郎」は別の呼ばれ方では「鉄砲女郎」ともいわれ、安く多くの客を取ることで知られていました。そのため、当時はやりの病だった梅毒にかかりやすく、若くして命を落とす人も少なくありませんでした。 そうした遊女と関係を持つと自分の寿命も短くなるということから、当たったら怖いもの、つまり鉄砲に例えられ、「鉄砲女郎」といわれていたのです。こうして考えると華やかに見える遊郭の世界には、残酷なまでの階級による差別化と、それによって人生も大きく異なる現実が待っていたことが分かります。 遊郭は基本的には一部の富豪の遊びでしたが、「散茶女郎」と呼ばれる遊女の出現によりより庶民化していきます。散茶は手間をかけずにすぐに飲めるタイプのお茶のことを指す言葉で、花魁のように格式が高く、手に入れたくても手に入らない存在のようなものではなく、客を振ることがないために「散茶女郎」は当初は女郎の中でも決して高い身分とは言えませんでしたが、時代の移り変わりとともに廃れていった上位の位も多く、結果的に散茶女郎が格上げされて花魁と呼ばれることにもなりました。 めでたく最高位である花魁となった後でも、さらに階級は分かれていたようです。大きく分けると3つで、「呼び出し」、「昼三」「付廻し」という階級です。中でも最高位中の最高位は「呼び出し」で、このクラスの遊女になると、そう簡単に会うことはできず、揚屋を通して仲介をしてもらわないといけませんでした。常に身の回りの世話をする見習いの遊女を付けており、彼女たちを従えて歩くさまは花魁道中と呼ばれて華やかに遊郭を彩ったのです。遊女になったなら誰しも憧れたであろう花魁、その花魁の中でも最高位の呼び出しという階級を手にするまでには、一方ならぬ努力と、たぐいまれな美貌、そして運などもすべて兼ね揃えていなければ到達できなかったに違いありません。 単なるお酒の席を楽しく盛り上げる役割だけではなく、そのような格式高い女性が時に歴史の重要な局面にも登場するというもの頷けるのではないでしょうか。

花魁のしきたり

こうした遊女遊びをする際にも、遊び方のルールを守る必要がありました。ましてや花魁のクラスになると、そうしたルールを完全に理解していることが一つの礼儀ともなったことでしょう。そこで定められているルールは決していい加減なものではなく、厳格に決められていたため、花魁の文化は数百年も存在し続けることができたに違いありません。 遊郭にはいつしか様々な身分階級の客が集まるようになっていました。その中で細かく遊女の階級が分かれていることによって、それぞれの身の丈に合った遊び方ができるようになった反面、厳しいルールの下で運営をしないと治安の悪化を招く恐れもありました。そのため、ルールを知らずに失礼なふるまいをする客に関しては、吉原全体として締め出すなどの厳しい断固とした処置がとられることもあったのです。このルールは位の高い花魁ともなると、さらに厳しくなり、なじみになるためにはたくさんのご祝儀と礼儀が必要となったのです。 花魁となじみになるためには、何度も通わなければならず、上客として認められていく必要がありました。何度も通うとはいえ、一度にかかる費用はとても庶民では手の届かない額だったので、なじみになるのは大名などのごく限られた富裕層のみでした。通う回数としては最低でも3回といわれており、3回通って客としての財力や人柄を認められ上客となって初めて花魁を指名することができました。 また、一度花魁の一人を示した場合、同じ花魁を指名し続けるのが粋な遊び方とされており、そのようにして花魁と客との信頼や、絆が深まっていったのです。こうした地道な努力の末に「馴染み」として認められると、疑似夫婦ともいうべき厚遇が待っています。ここまで来て初めて打ち解けることが可能となるため、この誰しもうらやむ関係性のために莫大な金額を投資したのです。 とはいえ、吉原は非常にルールに厳格なところで、花魁の馴染みになった後でもその厳格さは適用されました。そこまでしても花魁は決して媚びるようなことはせず、気に入らなければ降ることもできたので、客としては常に油断できない緊張感がありました。このような徹底されたシステムによって、吉原は普通以上に花魁の品格を高め、そのハイブランドとしての価値を存続し続けることができたのでしょう。 このルールは客にとっては吉原で礼儀を忘れずに遊ぶための必要なルールであり、吉原にとってはルールがあってこそ自らの地位を守ることができる非常に重要なものだったのです。

現代も使われている?独特な廓言葉

花魁は独特の言葉遣いでも知られています。この言葉遣いのことを「廓言葉」といいます。その中でも有名な言葉として「ありんす」などがあるため、廓言葉は「ありんすことば」などともいわれています。吉原の遊女ならではの雰囲気を醸し出すのに一役買ったであろう廓言葉は、一つの文化として確立されていったのです。 ではどうして廓言葉が使われるようになったのでしょうか。その理由は実に現実的な理由でした。当時の遊女は各地方から集められていました。当時の日本は今のように標準語というものがないため、それぞれが出身の土地の言葉を使っていました。そのため、吉原であっても出身の土地の方言が口に出てしまう可能性もありました。今でこそ、方言は独特のニュアンスや響きがあるので、方言を使うことはかわいいこととすらされていますが、当時としては、何を言っているのか理解されないことや、吉原の雰囲気を求めてきた客が急に地方の方言を聞いてしまうことで興が覚めてしまうということも考えられました。そこで、廓言葉を普及させるようにすることによって、どこから来た遊女も遊郭ならではのハイセンスでおしゃれな言葉遣いができるように訓練されたのです。 こうした廓言葉は実は今の世の中でも使われています。例えば、スルメのことをアタリメと呼ぶのは、「スル」という言葉が金品を盗み取る「スリ」を連想させるため縁起が悪いということで、「スル」ではなく「アタル」を使い、アタリメと呼んだ廓言葉がルーツとされています。 また、よくお笑いの世界で使われるパートナーを表す「相方」という言葉も実は始まりは廓言葉で、お客に対して花魁のことを「相敵」(あいかた)と呼んだのがルーツと思われます。そしてそもそも「馴染み」という言葉自体、花魁と懇意になることを指す馴染みという言葉からのものですので、現代でも「お馴染みの」という表現を使うとき、それは廓言葉を使っているということにもなるのです。このように言葉の中に根付いている花魁の文化について考えるとき、歴史的に見ても彼女たちの存在は決して小さくはなかったと感じることができます。

花魁と芸者の関係

花魁とよく混同されがちなのが、芸者です。芸者もお酒の席で盛り上げる役目を果たすため、つい花魁と混同している人も多いでしょう。もちろん、この言葉の意味合いは数百年続いた遊郭の文化において意味合いも変わってきたこともあるために、一概に定義することは難しいものの、基本的に花魁は遊女、つまり客に対して性的なサービスをする職業であるのに対して、芸者とは吉原に出入りする宴会芸のプロでした。 芸者によって宴会を楽しんで盛り上がったのちに遊女との関係を楽しむというのが当時の一つの遊び方の定番となっていたので、当時の人々は芸者と遊女、花魁の違いをはっきりと認識していたに違いありません。 このことをよく表す一つの言葉に、芸者は「芸を売っても身は売らぬ」というものがあります。遊女の方が遊郭においては格上の立場であったこともあり、芸者が身を売ることは一つの営業妨害ともなりかねず、トラブルの原因ともなったことでしょう。そうしたルールを厳格に守るうえでも、身は売らないという芸者たちの誇りは必要不可欠でした。そして、このように芸事に集中することで、より文化的な発展が実現し、芸者たちの様々なスキルは次の世代へと受け継がれていったのです。今の古典的な伝統芸能にも大きな影響を及ぼしている芸者たちの技術はこのようにして守り抜かれていきました。 花魁の役割や、どのような立場で生きていたのかを知ると、より一層花魁体験を楽しむことができるでしょう。 いまでもその妖艶さと華やかさ、そしてどこか切ない生き方でも多くの人を魅了している花魁の世界は知れば知るほど興味深く、意外に現代に生きる人たちの生活にも深く密着していることも少なくありません。こうした花魁の歴史などを学ぶことによって、現代でも大切な何かに気付くことができるかもしれません。

<< 花魁豆知識一覧へ戻る

TOP